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自然に [「『正信偈』ふたたび」その58]

(8)自然に

この譬えが自力と他力の違いをあらわすためには、「陸道の歩行」は「これから」であるのに対して、「水道の乗船」は「もうすでに」ということでなければなりません。「陸道の歩行」は「さあこれからわが足をたよりに歩いていこう」ということですが、「水道の乗船」は、「これから」船に乗ってどこかに行こうというのではなく(それでは「陸道の歩行」と何も変わりません)、「もうすでに」船のなかにいることに気づくということ、これが他力です。気づいてみると「もうすでに」本願という船のなかにいて、その本願に生かされているということ、これが他力です。

第三句の「憶念弥陀仏本願(弥陀仏の本願を憶念すれば)」が、いま言いました弥陀の本願がわが身に生き生きとはたらいていて、本願力に生かされていると感じることであり、そのように感じられさえすれば第四句の「自然即時入必定(自然に即の時必定に入る)」となります。この第三・第四句のもとは「易行品」の「人よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る」という文で、「必定に入る」とは「不退転に至る」こと、あるいは「正定聚となる」ことで、もうどんなことがあっても仏となることから退転することがなくなるということです。

親鸞は「即の時に必定に入る」の前に、もとの文にはない「自然に」を加えていますが、このことばには親鸞の大事な思いが込められています。最晩年の「自然法爾章」において親鸞は「自然」についてこう言っています、「弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、迎へんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申す」と。「自然に」とは如来のはからいにすべてを委ねて生きるということ、本願力に生かされて生きるということです。如来のはからいに任せて何もしないのではありません、その上で一生懸命生きるのです。これが「自然に」ということです。


タグ:親鸞を読む
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