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畢竟成仏の道路にて [はじめての『高僧和讃』(その82)]

(2)畢竟成仏の道路にて

 曇鸞が往生浄土は成仏の「道路」であり「方便」であると言っていることに親鸞は敏感に反応したであろうと思われます。このことばから、成仏への方便としての往生という道路はすでにしかれていて、もうその上を進んでいると感じたに違いありません。いのち終わってから往生という道路に出るのではありません、今生で本願に遇ったそのときに往生という道路を進み始めるのです。いや、正確に言いますと、もうずっとむかしから往生の道路を進んできたことにそのときはじめて気づくのです。
 往生のときが成仏のときであるという強固な観念がいつの間にか形づくられてきました。そしてそれはいのちの終わりに臨んでであるという思い込みがあります。しかし、往生は「畢竟成仏の道路」であるということばからは、往生の道路を進んでいく先に成仏があるというイメージが浮かびます。往生と聞きますと、ある瞬間(臨終)に世界が一変するような印象をもってしまいますが、往生とはむしろ長い旅路ではないでしょうか。点ではなく線。しかもその旅路は「陸道の歩行」ではなく「水道の乗船」(龍樹『十住毘婆沙論』)ですから、「かの願力に乗じて」かならず目的地である成仏まで連れて行ってもらえるのです。
 「往生がさだまる」という言い回しには注意が必要です。正定聚というのは「往生がさだまった位」であると言われるとき、これを「往生の約束がえられた位」と受け取ってしまうことが多いと思います。往生自体はまだ先(いのち終わるに臨んで)だが、それが約束されるのが正定聚であると。あるいは往生の切符が与えられるのが正定聚であると言われることもあります。浄土への旅の切符がえられるだけで、旅そのものはまだこれから先のことだと。しかし「往生がさだまる」というのは、「往生という旅がもうすでにはじまっている」ということです。成仏という旅先に到着するのはまだ先だけれども(それはおそらくいのち終わってのちだけれども)、その旅はもうすでにはじまっているのです。

タグ:親鸞を読む
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