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実相身と為物身 [『教行信証』「信巻」を読む(その38)]

(7)実相身と為物身


 『論註』の文の後段です。


 いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物(人のこと)のための身なりと知らざるなり。また三種の不相応あり。一には信心淳(あつ)からず、存(ぞん)せるがごとし、亡(もう)ぜるがごときのゆゑに。二には信心一ならず、決定(けつじょう)なきがゆゑに。三には信心相続せず、余念間(へだ)つるがゆゑに。この三句展転(てんでん)してあひ成(じょう)ず。信心淳からざるをもつてのゆゑに決定なし、決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆゑに心淳からざるべし。これと相違せるを〈如実修行相応〉と名づく。このゆゑに論主、はじめに〈我一心〉とのたまへり」と。已上


「実のごとく修行せざると、名義と相応せざる」とはどういうことかについて、曇鸞はここで二つのことを上げています。一つは「如来はこれ実相の身(実相身)なり、これ物のための身(為物身)なりと知らざる」こと、二つは「三種の不相応」、すなわち名号に真実の信心が相応していないということです。


まず一つ目の、如来に実相身と為物身の二つがあることを知らないということですが、これはもう一歩ふみ込んで、如来は実相身であるとだけ思い込んで、為物身であることを知らないと読むべきでしょう。実相身とは世の実相そのものとしての如来ということで、為物身とはわれら衆生の救済のための如来ということですが、これまたもう一歩ふみ込んで、実相身とは「体」としての如来、為物身とは「力用(はたらき)」としての如来と見るべきでしょう。すなわち実相身とはどこかに超然として存在する如来、為物身とは「いまここ」ではたらいている如来ということです。


如来がどこかに超然として存在するということは、如来と「わたし」が別であるということです。「わたし」から超然として存在する如来は、どれほどありがたい存在だとしても、そのままでは「わたし」の救いとは無縁です。そこで「わたし」は如来に向かって一生懸命呼びかけなければなりません、「南無阿弥陀仏」と。これが「実のごとく修行せざると、名義と相応せざる」ということです。



タグ:親鸞を読む
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