SSブログ
『教行信証』「信巻」を読む(その63) ブログトップ

行に就いて信を立つ [『教行信証』「信巻」を読む(その63)]

第7回 一心専念


 (1) 行に就いて信を立つ


   深心釈の最後で、第五段になります。


 またこの正(正行のこと。読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆の五行)のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近(くごん)を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業(往生が正しく定まる因となる業)と名づく。かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼誦(らいじゅ、礼拝と読誦)等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正助二行を除きて以外(いげ)の自余の諸善は、ことごとく雑行(ぞうぎょう)と名づく。乃至 すべて疎雑(そぞう)の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。


 先の第四段で「人に就いて信を立つ(就人じゅにんりっしん)」ことが述べられたのを受けて、ここで「行に就いて信を立つ(じゅぎょうりっしん)」ことが取り上げられます。釈迦・諸仏を信じることに対して名号という行を信じるということでこのように二つに分けられていますが、この二つは二つにして一つです。釈迦・諸仏を信じるということは、釈迦・諸仏の仰せ、すなわち「名号により往生させていただくを信じるということですから、結局、名号を信じることに他なりません。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(『歎異抄』第2章)とありますが、ここに「人を信ずる」ことと「行を信ずる」ことが一体不離であることが明らかです。「よきひと」(先回の最後に言いましたように、「よきひと」とは諸仏のことです)を信ずることは、念仏を信ずることとひとつです。


「人を信ずる」ことと「行を信ずる」ことがひとつであるということは、もう一歩ふみ込んで言えば、名号という行が「よきひと」を通してわが身に届き、かくして「名号の人」が生まれるということです。「よきひと」と名号はひとつになっていますが、「よきひと」すなわち名号がやって来て、その名号とひとつになり、また「名号のひと」が生まれる、これが「信を立つ(立信)」ということです。



タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』「信巻」を読む(その63) ブログトップ