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往相がそのまま還相 [『歎異抄』ふたたび(その47)]

(4)往相がそのまま還相

 往相(自分が救われること)がそのまま還相(人を救うこと)などと言いますと、途方もないことのように聞こえるかもしれませんが、そもそも大乗仏教のエッセンスとしての菩薩思想というのはそのことを言っているのではないでしょうか。大乗の菩薩は(小乗の声聞や縁覚と違い)自分の菩提を求めるだけでなく、一切衆生の菩提を求めますが、それは一切衆生が救われてはじめて自分も救われるからに他なりません。自分の救いと一切衆生の救いはひとつであり、自分だけが救われることはありえないというのが大乗の根本思想です。それをもっともはっきり示しているのが第18願の「若不生者、不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」でしょう。もし一切衆生が往生できなければ(救われなければ)、わたし法蔵菩薩も仏に成ることはありません、と言うのです。
 しかし往相がそのまま還相である、というのはどうしても腑に落ちないと言われるかもしれません。自利がそのまま利他であるというのはどういうことか、と。この疑問が生じてくる根っ子はやはり自力の発想にあります。われらには自力の発想が骨の髄まで染み込んでいますから、どうして往相すなわち自分が救われることがそのまま還相すなわち他の人たちを救うことなのか、なぜ自利と利他がひとつなのか、と疑問に思ってしまうのです。そこであらためて往相も還相もわれらの回向(自力)ではなく、如来の本願力回向(他力)であるということについて腰を据えて考えてみたいと思います。
 往相については、自分が「救われる」というように、自然に受動態で考えますから、それは如来の本願力回向であるというのはさほど抵抗なく通っても、還相となりますと、これは自分が他の人たちを「救う」のですから、どうしても能動態にならざるをえず、それが如来の回向であるというのはどういうことかとなります。ここでもういちど還相というのは利他教化であるということを思い返しましょう。善導の「自信教人信(みづから信じ、人を教えて信ぜしむ)」でいいますと、教人信が還相です。そこで、どうして「人を教えて信ぜしむ」ことが如来の回向、すなわち他力になるのか、これがどうにもピンとこないということです。

タグ:親鸞を読む
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