SSブログ
『歎異抄』ふたたび(その4) ブログトップ

文字と声 [『歎異抄』ふたたび(その4)]

(4)文字と声

 釈迦が語ったことばはそれを聞いた弟子たちの「耳の底に留むるところ」となり、それは文字に記録されることなく口授されていきました。その時代のインドにはもうすでに文字がありましたが、しかし釈迦のことばは文字に書くべきではなく、しっかり記憶し口頭で伝授しなければならないという暗黙の了解があったのです。釈迦が亡くなった直後にマハーカッサパ(大迦葉)の提唱でおこなわれた第一回の仏典結集において、律についてはウパーリ(優波離)の記憶により、法についてはアーナンダ(阿難)の記憶により釈迦の教えが確認され、それが正統の仏典として口頭で伝承されていくことになります(それが文字で書かれるようになるのはずっと後のことです)。大乗経典の冒頭に「如是我聞」とありますのは、アーナンダが「わたしは釈迦からこのようにお聞きしました」と述べているのです。
 さてしかし、どうして大事なことは文字ではなく口頭で伝授されなければならないのでしょう。そこにはどのような消息が隠されているのでしょう。それは、書かれた文字は読むものであり、語られた声は聞こえるものであるということ、そして読むのは「こちらから」であるのに対して、聞こえるのは「むこうから」であるということに関わります。書かれた文字を読もうとしますと、いったいこの文字は何を伝えようとしているのだろうと、こちらからその文字に向かっていかなければなりません。ただ漫然と文字を見ているだけでは何も伝わってきません。しかし語られた声はおのずからむこうから聞こえてきて、気がついたらわれらのこころの奥深くに届いています。
 いや、まてよ、語られた声だって、こちらから聞こうとせず、ただボーと聞いているだけでは頭の上を通り過ぎていくではないか、と言われるかもしれません。「こころここにあらざれば見れども見えず、聞けども聞こえず」で、その点では何も変わらないと。さてしかし、語る人のことばを一字一句も聞き漏らすまいとして聞くのは、書かれた文字を読むのと同じように、こちらからそれをゲットしようとしています。それに対して、ここで声が聞こえるといいますのは、ちょうど美しいメロディが聞こえてきたとき、それに否応なくこころを鷲づかみされるように、むこうからやってきた声にゲットされるという事態を指しているのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』ふたたび(その4) ブログトップ