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平生業成、不来迎 [「『おふみ』を読む」その27]

(2)平生業成、不来迎

これは、すでに1・2で触れられていた「平生業成、不来迎」について、問答形式でより明確にしようとしていると言えます。そのことばの意味については過不足なく説き尽くしていると言えるでしょうが、何かしら不満が残ります。それは親鸞が現生正定聚ということばに込めたいちばん大事な精神が伝わってこないという点です。何か教理問答を読んでいるような気がしてしまうのです。ぼくは正式に真宗学という学問をしたわけではありませんが、例えば大学で講じられる真宗学の講義を聞いている感じといえばいいでしょうか。あるいは試験で「平生業成とはいかなる意味か、300字以内で答えよ」という問題が出されたときの模範解答とでも言いましょうか。

臨終の来迎のときに往生が定まるのか、それとも平生の信心決定のときに往生が定まるのかの違いにどんな意味があるのか。それは、ただ往生治定のときが早いか遅いかというようなことではなく、それまでの浄土教をひっくり返すほどの途方もない意義をもつはずですが、蓮如のことばからはそれが伝わってこないのです。途方もない意義と言いますのは、現生の重さということです。今生を生きていることの大切さです。親鸞以前の浄土教においては、すべての価値は来生にあり、今生はただただ念仏しながらひたすら来生の往生を待ち望むのみ、というような現世否定の姿勢が主流でした。その価値を転倒して、現世をおおらかに肯定するのが親鸞浄土教です。

もう一度「おふみ」の本文をお読みいただきたいのですが、いま述べましたような価値転倒の息吹が伝わってきますでしょうか。ぼくには残念ながらそれが感じられません。もちろん蓮如にとって「親鸞聖人の一流」が他の門流とは異なる正当な教えであることは言うまでもありませんが(だからこそ「おふみ」でそれを繰り返し伝えようとしているのですが)、その差異のインパクトが決定的に弱いと言わざるをえないのです。


タグ:親鸞を読む
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