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結論 [「親鸞とともに」その24]

(24)結論

以上、「生きる意味」についていろいろ考えてきましたが、ここでその結論をまとめておきましょう。

われらは「わたしのいのち」を「わたしの力」で生きていると思っていますから、「わたしのいのち」が「生きる意味」は、「わたしのいのち」自身が見いだし、みずからに与えるのが当然だと思います。しかし日々、一生懸命「わたしのいのち」を生きているときには、「生きる意味」などを問うことはありません。その日その日の生活に追われて、「生きる意味は何か」などといった問いが入り込んでくる余地がありません。こんな問いが心のなかに忍び込んでくるのは、その日々の生活に何らかの障害が起こり、そのサイクルがうまく回らなくなったときです。

これは何を意味するかといいますと、「生きる意味」とは空気のようなもので、それが希薄になったときにはじめて意識に上ってくるということです。としますと、この問いにはそもそも無理があると言わなければなりません。「生きる意味」があるときには意識に上らず、それがなくなってきてはじめて「生きる意味は何か」と問うのですから。「生きる意味」はないのではと感じているときに「生きる意味は何か」と問うということは、これは問いの形を取りながら、「生きる意味などありはしないのではないか」とプロテストしているということです。

さて、「生きる意味」は「わたしのいのち」が与えるものという常識の立場に対して、それは「ほとけのいのち」から与えられるものという立場があります。それが宗教の立場です。「ほとけのいのち」とは、すべての「わたしのいのち」が無尽につながりあう、その「無尽のつながり」のことです。われらは「わたしの力」で「わたしのいのち」を生きていると思っていますが、あるとき、そのように思うことも含めて、「ほとけのいのち」のなかで生かされているという気づきが起こります。そのとき「生きる意味」は「ほとけのいのち」から与えられていることに思い至るのです。

としますと、この場合も「生きる意味は何か」という問いは不要です。こんな問いを出すまでもなく「生きる意味」はもうすでに与えられているのですから。「わたしのいのち」は「いまここ」で「ほとけのいのち」に生かされていること、これが何より「ありがたい(あることかたい)」ことであり、これこそが「生きる意味」です。

(生きる意味ふたたび 完)


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