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如来よりたまはりたる信心 [『歎異抄』ふたたび(その65)]

(3)如来よりたまはりたる信心

 法然の仰せはこうでした、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と。その場の雰囲気がびんびん伝わってきます。居あわせた面々、もうグーの音も出ないといったところでしょう。このひとことはきわめて大事なことをわれらに伝えてくれます。「われらに安心(あんじん)を与えてくれる真理はむこうからたまわるものであり、ひとつである」、これです。
 われらがそれぞれの状況において安心(あんしん)を得るためにこちらからゲットしなければならない真理は数限りなくありますが、しかしわれらがむこうから思いがけずゲットされる真理はただひとつで、それさえあればどのような状況におかれても安心(あんじん)が得られます。安心(あんじん)がひとつ(浄土はひとつ)である以上、それを与える真理もひとつです。それを語ることばは人それぞれでしょうが、それらのことばが指す月はひとつであり(指月の譬え)、したがって「それ(ひとつの真理)を知った人は、争うことがない」(『スッタニパータ』)のです。
 さて「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心」であるとしますと、師・源空と弟子・親鸞の関係は何だろうという疑問が浮びます。それぞれがそれぞれに信心を「如来よりたまはる」とすると、師の存在にどういう意味があるのかということです。ここで考えなければならないのは、「弥陀の御もよほし」といい、「如来よりたまはる」と言いますが、実際にどのようにして「もよほし」、「たまはる」かということです。「もよほす」のは弥陀であり、「たまはる」のも弥陀であることは動きませんが、しかしそれは弥陀から直接にではありません、そこに師(よきひと、善知識)の存在が介在するのです。
 そもそも浄土の教えにおいて師とは何でしょうか。

タグ:親鸞を読む
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