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社会的な「よし、わろし」 [『歎異抄』を聞く(その109)]

(9)社会的な「よし、わろし」

 これまで個人的な局面で考えてきました。病気になったとか、経済的に行き詰ったとか、人間関係がうまくいかないとか、そんなときぼくらは慌てふためき、どうすればいいかとジタバタしますが、よきこともあしきこともみな宿業のもよおしによると思い知り、すべてを「無限大悲の指令」(清沢満之)にまかせて「虚心平気」でいるのが他力の生き方だということを見てきました。そこで今度は社会的な局面に目を移してみましょう。ぼくらが日々、「これはよし、あれはわろし」とさまざまにはからうのは個人的なことだけでなく、もっと広い社会的なことがらもあります(どこまでが個人の領域で、どこからが社会の問題かをはっきり線引きすることはできませんが)。
 例えば原子力発電の問題、あるいは憲法第9条の問題。このような世論が二分している社会問題あるいは政治問題について、「これはよし、あれはわろし」とはからうことも「みなもてそらごと、たわごと」でしょうか。そして世の流れに身をゆだねているのが他力の生き方でしょうか。もういちど親鸞のことばを聞いてみましょう。「善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(後序)。
 原子力発電はよきことか、わろきことか、これを「如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど」、われらにそんなことができるはずがなく、「よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと」だから、己れのはからいをすてて宿業に身をゆだねるしかない。親鸞がいま生きていればこう言うでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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