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死の怖れ [『教行信証』「信巻」を読む(その15)]

(5)死の怖れ

死の怖さも時代によって色合いが違うような気がします。われら現代人は、これまでつづいてきた「いのち」があるとき全き「空無」に帰してしまうことに言いしれない怖れを感じるのではないでしょうか。しかし仏教における伝統的な死の怖れというのは、むしろ「転生」の怖れではないかと思います。今生の「いのち」が終わると、次にまた別の「いのち」に生まれ変わり、それがどのようなものかが分からないという怖れです。ですから「生死の迷い」から脱することを『大経』では「横に五悪趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天)を截る」とか「悪趣自然に閉づ」という言い方で表現されますし、親鸞もまた「往相の一心を発起するがゆゑに、生としてまさに受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし」(「信巻」横超断四流釈)と言います。もはや転生の怖れがなくなったということです。

しかし「空無」に帰すにせよ「転生」するにせよ、あるときこれまでの「わたしのいのち」がとつぜん断たれることの怖さが死の怖さです。

その背景にあるのは「わたしのいのち」というものが確かなものとして存在し、すべてはそれがあっての物種という感覚です。われらは「わたしのいのち」こそあらゆることの第一起点であるという思いをもって生き、他の「わたしのいのち」たちと相剋しながら生きています。他の「わたしのいのち」と仲良くすることももちろんありますが、それはそうすることが「わたしのいのち」の利益になるからで、そうでないことが分かった時点でにべもなく他を切り捨てます。そんななかで、あるときふと「そんなことでいいのか」という「こえ」が心に聞こえることがあります。そしてそのとき同時に「いのち、みな生きらるべし」という「本のねがい」も聞こえてくるのです。

そのときわれらは「ほとけのいのち」と出あい、「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかで生かされていることに目覚めることになります。そうしますと、もうすでに「ほとけのいのち」のなかにあるのですから、「わたしのいのち」はいつの日かかならず終わりのときを迎えるとしても、「ほとけのいのち」としてはこれまでと何の変わりもありません。これは何よりの「長生不死の神方」ではないでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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