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私は考える、ゆえに私はある [『ふりむけば他力』(その63)]

(2)私は考える、ゆえに私はある

 しかしわれらの知識には感覚によらないものがあります。数学です。彼はラフレーシ学院時代から数学の確実性と明証性がいたく気に入っていましたし、後には自身で解析幾何学という新しい数学をつくっています。しかし彼のとった方針は「ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすてる」ことでしたから、「幾何学の最も単純な問題についてさえ、推理をまちがえて誤謬推理をおかす人々がいるのだから、私もまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、私が以前には明らかな論証と考えていたあらゆる推理を、偽なるものとして投げすて」るのです。さらに後の著作『省察』によりますと、神(あるいは悪魔)がわれらを欺いて、偽であることを真であるかのように見せかけているかもしれないと疑っています。もう病的と言わなければなりません。
 しかしこれでまだ終わりではありません、デカルトは最後に夢を持ち出します。「われわれが目ざめているときにもつすべての思想がそのまま、われわれが眠っているときにもまた現われうるのであり、しかもこの場合はそれら思想のどれも、真であるとはいわれない、ということを考えて」、これまで自分のなかに入ってきたあらゆる思想を真ではないとして投げすてるのです。さあ、これでもう何ひとつ残らないように見えます。あらゆるものが疑わしい。そのときです、デカルトにある気づきが起ります、「私がこのように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなくてはならぬ」。
 かくして彼は結論します、「私は考える、ゆえに私はある」と。そしてこの真理の真理性は、もうどんな懐疑論者も認めざるをえないと考えて、「この真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができると判断」するに至るのです。引用が多くなりましたが、できるだけデカルト自身の思索の現場を実況中継的に伝えようと思ってのことです。ぼくは高校生のとき、『倫理社会』の課題本として『方法序説』を読むことがあり、この一節に目を丸くしていました。そして「哲学って、何て素晴らしい」と思いました。理系を選択していましたが、志望先を急きょ文学部哲学科に変更したのはそのときです。

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