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われ生きんかな [『歎異抄』ふたたび(その6)]

(6)われ生きんかな

 デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という有名なことばは、そのことを言っています。われらはさまざまなことを思いますが、それらすべての原点は「われ生きんかな」という思いでしょう。「われ生きんかな」と思うから、それに必要なことを次々と思うことになるのであり、「われ生きんかな」と思わなくなったら、もう何も思うことはありません。そして「われ生きんかな」と思ってはじめて「われ生きる」ことが成り立つことは、かの筋ジスの主人公の生きざまが雄弁に語ってくれています。これが自力ということです。
 生きることはしょせん自力であるということです。どれほど多くの人に支えられていても、それも結局のところ自力によるのであり、「われ生きんかなと思う、ゆえにわれあり」です。どんなことも、どんなものも、こちらから(みずから)ゲットしなければなりません。実際、ぼくらは日々必要なものをみずからゲットして生きていますし、ものだけでなく友情や愛もみずからゲットしようと涙ぐましい努力をしてはじめて手に入れることができます。このように見てきますと他力の入る余地などどこにも残っていないということになります。
 こんなふうにすべて自力でゲットしなければならないのですから、他力にゲットされるなどと言われますと、「何だよ、それ」となってしまうのです。
 先ほど仏法はわれらがこちらからゲットするのではなく、逆に、われらが仏法にゲットされるのだと言いましたが、さてこれはいったいどういうことでしょう。仏法だって、他のあらゆるものと同じように、こちらからゲットしなければならないのではないでしょうか。ことは仏法とは何かということに関わります。ここで仏法とは何かについて大演説をぶつことはできませんが、ひと言だけしておきますと、すべては「われあり」からはじまると思い込んでいるのはわれらの心の囚われであるということ、これです。仏教ではこれを無我といいます。

タグ:親鸞を読む
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