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おのれが心に悔熱を生ず [「信巻を読む(2)」その86]

(4)おのれが心に悔熱を生ず

いよいよドラマの幕が開きます。

またのたまはく、「その時に、王舎大城に阿闍世王あり。その性、弊悪(へいあく)にしてよく殺戮(せつろく)を行ず。口の四悪(妄語、綺語、悪口、両舌)、貪・恚・愚痴を具して、その心熾盛(しじょう)なり。乃至 しかるに眷属のために現世の五欲の楽に貪著するがゆゑに、父の王辜(つみ)なきに、横に(よこさまに、非道にも)逆害を加す。父を害するによりて、おのれが心に悔熱(けねつ)を生ず。乃至 心悔熱するがゆゑに、遍体に瘡(かさ)を生ず。その瘡臭穢(しゅうえ)にして附近(ふごん)すべからず。すなはちみづから念言すらく、〈われいまこの身にすでに華報(けほう、現世の報い)を受けたり。地獄の果報まさに近づきて、遠からずとす〉と。その時に、その母韋提希后、種々の薬をもつてためにこれを塗る。その瘡つひに増(ぞう)すれども、降損(ごうそん)あることなし。王すなはち母にまふさく、〈かくのごときの瘡は心よりして生ぜり、四大(地、水、火、風。いまは肉体という意味)より起れるにあらず。もし衆生よく治することありといはば、この処(ことわり)あることなけん〉と。

ここで注目したいのは、主人公である阿闍世はすでにして自分のしたことに対して激しい悔いのなかにあるということです。彼は「その性、弊悪にしてよく殺戮を行ず。口の四悪、貪・恚・愚痴を具して、その心熾盛なり」とされますから、世の極悪人の常として悔いなどは無縁の人かと思いきや、激しく後悔しており、それが心の熱となりまた瘡となって身体にも出ています。この後に登場してくる大臣たちは、その様子を見ては「大王なんがゆゑぞ愁悴(しゅうすい)して顔容(げんよう)悦ばざる。身痛むとやせん、心痛むとやせん」と問いかけ、口々に「大きに愁苦することなかれ」と慰めます。「どうして後悔などするのですか、そんな必要はありません」と元気づけようとするのです。

そこで考えておきたいのが、後悔とは何かということ、後悔には二種類あるのではないかということです。


タグ:親鸞を読む
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