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つねに慈忍の心を懐いて詐諂せず [『教行信証』「信巻」を読む(その102)]

(6)つねに慈忍の心を懐いて詐諂せず

次に『如来会』から同じ趣旨の文が引かれます。

『無量寿如来会』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、かの法処比丘(法蔵菩薩のこと)、世間自在王如来(世自在王仏のこと)および諸天・人・魔(六欲天の魔王)・梵(梵天)・沙門・婆羅門等の前にして、広くかくのごときの大弘誓を発しき。みなすでに成就したまへり。世間に希有にしてこの願を発し、すでに実のごとく安住す。種々の功徳具足して、威徳広大清浄仏土を荘厳せり。かくのごとき菩薩の行を修習せること、時、無量無数不可思議無有等等億那由他百千劫を経る。うちにはじめていまだかつて貪瞋および痴、欲・害・恚の想を起さず、色・声・香・味・触の想を起さず、諸の衆生において、つねに愛敬をねがふことなほ親属のごとし。乃至 その性、調順にして暴悪あることなし。もろもろの有情において、つねに慈忍の心を懐いて詐諂(さてん、いつわりへつらう)せず、また懈怠なし。善言策進(ぜんごんしゃくしん、善を行うよう勧める)して、もろもろの白法を求めしめ、あまねく群生のために勇猛にして退することなく、世間を利益せしめ、大願円満したまへり」と。略出

ここで言われているのは『大経』と同じで、法蔵菩薩の兆載永劫の「三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし」ということです。

ところで親鸞は先の仏意釈において、まず「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」とわれらのことについて述べていました。そしてその上で、法蔵菩薩の「三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし」と述べ、その至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり」と言われたのでした。ところが経典では、いま見ましたように、法蔵菩薩の話からはじまります。そしてわれら「一切の群生海」のことについては『大経』下巻の「五悪段」と呼ばれるところで、その「虚仮諂偽にして真実の心なき」ありさまがこれでもかと描かれます(『如来会』には、どういうわけかこの段はありません)。この順序について思いを廻らしたいと思います。どうして親鸞はまずわれらについて語り、しかる後に法蔵菩薩について語るのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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