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帰命は本願招喚の勅命なり [『歎異抄』ふたたび(その62)]

(9)帰命は本願招喚の勅命なり

 「わがちからにてはげむ善」の場合、「わたし」が第一の起点となっています。「わたし」がこれは善であると認定し、「わたし」がこれをなすべきであると決意しています。しかし念仏は、「わたし」がこれは善であると認定し、「わたし」がこれをなすべきだと決意してするわけではありません。もちろん念仏するのは「わたし」ですが(南無阿弥陀仏が勝手に口から出てくることはありません)、でもその際「わたし」が第一起点ではなく、そこにある縁がはたらいていることに気づいています。それがむこうからやってくる呼びかけです。むこうからの呼びかけを縁として「わたし」の念仏があり、呼びかけと念仏は同時的につながっています。
 われらは「南無」すなわち「帰命」と言えば「わたし」が如来に呼びかけることばと思いがちですが、親鸞はそれを如来が「わたし」に呼びかけることばであると教えてくれました、「帰命は本願招喚の勅命なり」(『教行信証』「行巻」)と。では何と呼びかけているのかといいますと、善導はそれを「二河白道の譬え」で「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん」と言い表してくれました。ぼくはそれを平たく「帰っておいで」の声と言っているのですが、こんなふうに呼びかけられて、もうそれに応答せざるを得なくなり、われらの口から「南無阿弥陀仏」がこぼれ落ちるのです、「はい、ただいま」と。
 かくして「南無阿弥陀仏」は如来からやってきて、「わたし」を通ってまた出ていくのですから、念仏は「わたし」がするには違いありませんが、「わがちからにてはげむ善」ではありません。ぼくの頭には六波羅蜜寺の空也像が浮んでいますが、あれは他力の念仏を表現して見事です。「わたし」が浄土に往生したいと願うには違いありません。しかしそれは、それに先立って如来から浄土に往生させてあげたいと願われているからに他なりません。願われているから願うことができるのです。本願とは「前の願(プールヴァ・プラニダーナ)」ということで、われらが願うより前に願われていることを意味します。本願があるからこそ、われらの願いがあるのです。

                (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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