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龍樹大士世にいでて [親鸞の和讃に親しむ(その43)]

(3)龍樹大士世にいでて

龍樹大士世にいでて 難行・易行のみちをしへ 流転輪廻のわれらをば 弘誓のふねにのせたまふ(第4首)

龍樹大師があらわれて、難行易行の道しめし、輪廻にしずむわれらをば、誓いのふねにのせたまう

同じことが正信偈では「難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ」と詠われています。さてしかし、歓喜地に至るのに、陸路を行くのは難しく、水道を行くのが易しいことは、そのどちらの道も経験して、その上ですでに歓喜地に至った人にしてはじめて知ることができます。としますと、その人はまず難行の陸路を歩み、その前途遼遠なることを思って天を仰いだそのとき、易行の水道があることに気づいたに違いありません。最初から易行の水道を行ったのであれば、わざわざ難行の陸路を経験することはありませんし、また難行の陸路を最後まで全うしたのであれば、易行の水道のことは知らず仕舞いでしょうから。

龍樹も、そして次の天親もまずは難行の陸路を歩み、そしてそのなかにおいて隆々たる成果を上げながら(龍樹は中観派、天親は唯識派の祖として後世人々から仰がれることになります)、しかしその途上において何か心から頷けないものを感じたのではないか、何ともならない行きづまりを感じていたのではないかと思うのです。そして悶々としていたとき『無量寿経』の教えに出あい、そのなかに自分の求めていたものがあることに気づいた。彼らはそれまでの難行の陸路の中で心が鍛えられ、研ぎ澄まされていたはずですが、そんな彼らの心に、乾いた大地が水を吸い込むように本願念仏の教えが染みとおっていったのではないでしょうか。

さてしかしなぜ空の教えは難しいのでしょう。空の教えとは「わたし」に囚われていること(我執)があらゆる苦しみのもとであるというものです。これはそこに到達したものにとっては深く頷くしかない真理ですが、これを目指して歩もうとするものにはとんでもない難題です。「わたし」に囚われていることを自覚し、それがあらゆる苦しみのもとにあることを自覚せよと言われても、それを自覚するのは「わたし」でしかないのですから、これはもう最初から無理難題と言わざるを得ません。こちらから「わたし」への囚われをつかまえようとしても、できることではないのです。ところが不思議なるかな、あるときむこうから「わたし」への囚われに気づかされるのです。それが本願に遇うということであり、そのときもう「弘誓のふね」に乗っているのです。


タグ:親鸞を読む
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