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ひかりに遇う [『教行信証』精読2(その149)]

(10)ひかりに遇う

 まず光明です。われらはそれぞれに切実な願いをいだき、どうにかしてそれを実現しようと日々躍起になっているのですが、あるとき一筋の光が差しこみ、その光から「何か大事なことを忘れてはいないか」という問いかけがやってきます。そうしてすっかり忘れ果てていたことがあるのを想い出す。これが光に遇うという経験です。浄土教において光は智慧をあらわしますが、光に遇うというのは何か特別な智慧が新たに与えられるということではありません。心の底にすっかり忘れられたままになっていたことを、あるときはっと思い出させてもらうということです。思い出すのは、言うまでもありません、法蔵の誓願です。
 これまでずっと心の底にあったのに、それをすっかり忘れていたのは、心が闇に閉ざされていたからです。
 蔵の中に大事な宝物がしまわれてあるのに、それに気づかずじまいだったのは、蔵の中が真っ暗だからです。あるとき蔵の中に光が差しこみ、そこにとんでもない宝物があることに気づく。頭に浮ぶのは曇鸞の卓抜な譬えです。「たとへば千歳の闇室に光もししばらく至らばすなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや」。千年の間ずっと闇の中にあった部屋も、光がさっと差しこむと、一瞬にして明るくなるではないかというのです。千年も闇の中にあったから、明るくなるのにまた千年かかる、というわけではないということです。
 そのように、ずっと忘れたままであったことも、思い出すのは一瞬です。そして思い出してしまえば、それはもうずっと昔からあったことが明らかになります。法蔵の誓願はずっと昔からわれらのこころの奥底にあったのです。ところがそのまま忘れられてしまい、忘れたことすら忘れてしまいました。それがひとすじの光で明るみに出される。これが光に遇うということで、そのとき「わたしのいのち」は「わたしのいのち」であるがままで「ほとけのいのち」であることに気づくのです。
 個々の「わたしのいのち」はそれぞれの得手勝手な願いを実現しようと四苦八苦しているのですが、その「わたしのいのち」の奥底に「ほとけのいのち」の願いがあることに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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