SSブログ
『ふりむけば他力』(その119) ブログトップ

ひとへに親鸞一人がため [『ふりむけば他力』(その119)]

(15)ひとへに親鸞一人がため

 弥陀の本願の気づき(これが信心です)は「わたし」に起こりますが、「わたし」が起こすことができないことをこれまで縷々述べてきました。本願の気づきを起こすことができるのは本願そのものです。これが他力のもっとも深い意味であり、そのことが「賜りたる信心」という言い回しで表されてきました。しかしそれと同時に、本願の気づきは「わたし」において起ること、それが「わたし」において起らなければ何ごとも始まらないこと、これを見落とすことはできません。本願の気づきは「わたし」の力で起こすことができるものではなく、本願自身の力によって起こされるという点ではまったくもって「公的」な出来事ですが、でもそれは「わたし」において起るしかないという点では「私的」で密かな出来事です。
 『歎異抄』「後序」の有名なことばに「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり」というのがあります。これはいろいろに解釈されることばですが、本願の気づきは一人一人のこころのなかで「私的」に起こるものであるという意味に取ることができます。このあたりの消息をキルケゴールは「主体性が真理である」と言い表しています。普通、真理のいのちは客観性にあるとされますが、しかしどれほど客観的に正しい真理でも、この「わたし」がその真理によって生き、その真理によって死ぬことができるものでなければわたしには用のないものであるということです。そして「それによって生き、それによって死ぬことができる真理」であるかどうかは、それぞれの人の「私的」で秘めやかなことがらです。
 弥陀の本願が「それによって生き、それによって死ぬことができる真理」であるかどうか、それはその人にその気づきがあったかどうかということです。弥陀の本願がなければ、その気づきはありません。当たり前のことです。でも同時に、その気づきがなければ弥陀の本願はありません。弥陀の本願は十劫の昔に成就したとされます。これは弥陀の本願は永遠であるということです。しかし永遠の本願も、その気づきが「わたし」に起らなければどこにも存在しません。その意味では本願は「わたし」にその気づきが起こったそのときに成就するのです。
 永遠は「いま」はじまります。

                (第9章 完)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その119) ブログトップ