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宗教の怖さ、あるいは統一教会について(さらにつづき) [親鸞の和讃に親しむ(番外編 その3) ]

◎宗教の怖さ、あるいは統一教会について(さらにつづき)

「どうして自分が」の対極にあるのが、この「たまたま」の感覚です。ぼくが日本人であるのは「たまたま」であるように、ぼくが不幸に遭うのも「たまたま」であると感じられるかどうか。この「たまたま」は、そこに何の因縁(つながり)もなく、突然そうなったということではなく、むしろ逆に、そこに無数の因縁(つながり)があるから、「どうしてそうなったか」を見通すことはできないということです。あらゆることがらが無数の糸で互いにつながりあっているから、そこから特定の糸を取り出すことはできないということです。

ですから不幸は「たまたま」ぼくに起こりましたが、他の誰かに起こっても不思議はなく、また逆に他の誰かが不幸に遭ったとき、その不幸に彼ではなくぼくが遭ったとしても何の不思議もありません。このように思えるのは、「わたしのいのち」を他の無数のいのちたちから切り離すことなく、ひとつにつながりあって「ほとけのいのち(無量のいのち)」をつくっていると思うからです。みんなつながりあって「ほとけのいのち」であるとしますと、不幸が起こったのが「たまたま」ぼくであるということであり、「どうして自分に」という問いに苦しまなくて済むようになります。

さて、何ごとも「たまたま」であるとしますと、われらが何をするのもむなしいということになるのでしょうか。もう天を仰いでため息をつくしかないのでしょうか。いえ、決して。「人事を尽くして天命を待つ」という中国の儒学者のことばがありますが、清沢満之(明治期の宗教哲学者です)という人は「天命に安んじて人事を尽くす」と言います。不幸は「たまたま」自分に起こっただけと思うことは、だから仕方がないとあきらめることではなく、むしろ逆に、起こった不幸に立ち向かっていくことができるということです。「たまたま」自分に起こっただけと思えるからこそ、人事を尽くすことができるのです。反対に「どうして自分に」という問いに苦しんでいる人は、不幸にうちのめされて人事を尽くすことができなくなります。

やはり天命に安んずるからこそ、人事を尽くすことができるのではないでしょうか。これがほんとうの宗教の教えです。

(完)


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