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善友を先とするにはしかず [「信巻を読む(2)」その106]

(9)善友を先とするにはしかず

釈迦のところに赴く阿闍世のこころに依然としてさまざまな迷いが渦巻いています。

その時に、仏、もろもろの大衆(だいしゅ)に告げてのたまはく、〈一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友(ぜんぬ)を先とするにはしかず。なにをもつてのゆゑに。阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日に必定して命終して阿鼻獄に堕せん。このゆゑに日に近づきたり、善友にしくことなし(『涅槃経』では「日」は「因」となっており、「このゆゑに近因は善友にしくはなし」と読む)〉と。阿闍世王また前路(釈迦のところへ行く途中)において聞く、〈舎婆提(しゃばだい、シュラーヴァスティの音訳、コーサラ国の都)の毘瑠璃王(びるりおう)、船に乗じて海辺に入りて火に遇ふ(災難から逃れようとして船に乗り、かえって火事に遭う)、しかうして死ぬ。瞿伽離比丘(くかりびく、舎利弗、目連を誹謗したため地獄に堕ちた修行者)、生身に(生きたまま)地に入りて阿鼻獄に至れり。須那刹多(しゅなせった)は種々の悪を作りしかども、仏所に到りて衆罪(もろもろの罪)消滅しぬ〉と。この語を聞きをはりて、耆婆に語りていはまく、〈われいまかくのごときの二つの語を聞くといへども、なをいまだあきらかならず。さだめてなんぢ来れり。耆婆、われなんぢと同じく一象に載らんと欲ふ。たとひわれまさに阿鼻地獄に入るべくとも、ねがはくは、なんぢ捉持してわれをして堕さしめざれ。なにをもつてのゆゑに。われ昔かつて聞きき、《得道の人は地獄にいらず》〉と。乃至 

仏のさとりに近づくには「善友を先とするにはしかず」と言われます。阿闍世には耆婆という善友がいたからこそ、釈迦如来にあうことができ、そのことばによって救われることができたのであり、「もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日に必定して命終して阿鼻獄に堕」すことになっていたとされます。恩徳讃に「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」とありますように、如来大悲の恩徳を蒙るには、師主知識(ここでは善友)に遇わなければならないということです。如来の大悲には直接遇うことができず、かならず師主知識という媒介が必要であるということです。


タグ:親鸞を読む
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