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天命に安んじて人事を尽くす [「親鸞とともに」その23]

(23)天命に安んじて人事を尽くす

思いがけなく美しいものに出あえたとき、たとえば雨上がりの空に大きな虹がでているのに気づいたとき、もうだれかれ構わず「ほら、虹ですよ」と言って回るようなものです。そんなとき、この喜びを自分だけのものとして取っておこうなどという思いが起こるはずがありません。ましてや「ほとけのいのち」に出あえたときの喜びは、できるだけ多くの人に「ほら、『ほとけのいのち』が」とふれ回りたくなります、「四海のうちみな兄弟」なのですから。

「ほとけのいのち」に遇うことができたときに何が起こるかを見てきました。自分がそのことで救い(安心)を得るだけでなく、周りの人たちに救いのおすそ分けをせざるをえなくなるということです、そもそも自分だけの救いなどというものはないのですから。これが還相という宗教の大事なはたらきですが、さてしかし、これだけではまだ「心の救い」だけではないかという疑問が生じるかもしれません。マルクスなら、それは「幻想的な幸福」であり、大事なのは「現実的な幸福」を追求することではないかと言うことでしょう。

そこで何か「現実的な不幸」に見舞われたときのことを考えてみましょう。そんなとき、いまここで生かされていることが何とも「ありがたい」と安んずることは、現実に目をつむり、それをより良いものに変えていくことが等閑になってしまうのでしょうか。

いえ、決して。「人事を尽くして天命を待つ」という中国の儒学者のことばがありますが、清沢満之はそれをひっくり返して「天命に安んじて人事を尽くす」と言います。不幸は「たまたま」自分に起こっただけと思うことは、だから仕方がないとあきらめることではなく、むしろ逆に、起こった不幸に立ち向かっていくことができるということです。「たまたま」自分に起こっただけと思えるからこそ、人事を尽くすことができるのです。反対に「どうして自分に」という問いに苦しんでいる人は、不幸にうちのめされて人事を尽くすことができなくなります。

やはり天命に安んずるからこそ、人事を尽くすことができるのではないでしょうか。これがほんとうの宗教の教えです。


タグ:親鸞を読む
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