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『教行信証』「信巻」を読む(その59) ブログトップ

仏証を請う [『教行信証』「信巻」を読む(その59)]

(8)仏証を請う


 このなかで目を引きますのが、「平章(ひょうしょう)することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり」という文言です。たとえ自分で「そうか」と了解できたとしても、仏の証明を求めよと言うのです。そして「もし仏意にかなへば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意にかなはざれば、すなはち〈なんだちが所説、この義不如是〉とのたまふ」と言われますが、これをどう理解すればいいでしょう。「仏証を請う」とはどういうことか、そして仏が「如是如是とのたまふ」とはどういう意味か。ここで「証明」ということについて少し考えてみましょう。


どんなことでも証明が求められます。コロナのワクチンを打つのにも本人であることを証明しなければなりません。そして何かを証明するとは、その証拠を提出するということです。ワクチン接種の本人証明の場合、たとえば運転免許証がその証拠となります。さてでは「いのち、みな生きられるべし」という本願はどのようにして証明できるでしょう。その証拠がどこかにあるでしょうか。「それは経典だよ、『大経』にそう説かれているのだから」と答えるとしますと、すぐさま「では『大経』に真実が説かれているという証拠はどこにある?」という問いが来るに決まっています。


金子大栄氏は若い頃、本願の存在証明をしなければならないと思い立ち、そのためにもがき苦しんだと言われます。そしてそんななかで、やろうとしている方向が間違っているのではないかと気づいた、反対ではないかと気づいたと言うのです。彼は自分が本願を証明しようとしたのですが、これをぼく流のことばに置き換えますと、「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」を証明しようとすることです。しかしそんなことができるはずがなく、逆に「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を証明しているのではないかと気づいたというのです。さてしかし「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を証明するとはどういうことでしょう。



タグ:親鸞を読む
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