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信と疑 [『正信偈』を読む(その161)]

            第23章 法然―信心をもて能入とす

(1)信と疑
            23
 還来生死輪転家(げんらいしょうじりんでんげ)  生死輪転の家にかへりきたることは、
 決以疑情為所止(けっちぎじょういしょし)  決するに疑情をもて所止とす。
 速入寂静無為楽(そくにゅうじゃくじょうむいらく) すみやかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、
 必以信心為能入(ひっちしんじんいのうにゅう)  かならず信心をもて能入とすといへり。

 (現代語訳) 法然上人はこう言われます、またもや生死輪廻の世界に戻ってしまうのは、結局のところ疑いのこころがあるからです。すみやかに涅槃寂静の世界にはいるには、信心こそが肝心なのです、と。

 この部分の元になっているものは『選択集』の「(八)念仏行者は必ず三心を具足すべきの文」にあります。法然は『観無量寿経』の三心(至誠心、深心、回向発願心)について善導の注釈(『観経疏』)を引き、それに自分自身の見解をつけ加えているのですが、深心のところで「生死の家には、疑ひをもつて所止とし、涅槃の城には信をもつて能入とす」と述べています。それがここで取り上げられているのです。
 本願を疑うことがわれらをいつまでも生死の迷いの世界につなぎとめ、本願を信じることが涅槃への道を開いてくれるのだといいます。専修念仏というものの、結局は往生の行として念仏を与えてくださった弥陀の本願を信じるところに行き着くということです。本願をこころから信じることができれば、それはおのずと念仏することにつながるのですから(前に詳しく見ましたように、念仏と信心は別ものではありません)、詰まるところ本願を信じるかどうかが問題だということになります。


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