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みなもつてそらごとたはごと [「『正信偈』ふたたび」その42]

(2)みなもつてそらごとたはごと

一切善悪の凡夫人」という一句から頭に浮ぶのはもう一つ、『歎異抄』「後序」に出てくる次のくだりです。「まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり」という唯円の述懐があり、それにつづいて親鸞のことばが紹介されます。「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善さをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と。

誰も彼も、これは善で、あれは悪と言いあっているが、わたし親鸞は「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり」と言い放ちます。その後につづくことばから分かりますように、善悪についてまったく知らないということではないでしょう。人間、日々を生きていく上で、「これは善し、これは悪し」という判断をしないでは、一歩も前に進めません。親鸞が言うのは、そのように善悪の判断をしながら生きているが、それが「如来の御こころに善しとおぼしめすほどに」善いことであり、「如来の悪しとおぼしめすほどに」悪いことであるとは到底言えないということです。その時その時を生きていく上でそうせざるをえないから、その時々で「これは善し、これは悪し」と判断しているだけだということです。

としますと、善悪の判断は人によって異なりますし、そして『憲法十七条』にありますように、「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず」ですから、結局何が善で何が悪か「総じてもつて存知せざるなり」と言わざるを得ません。それはわが生きてきた軌跡をふり返って、しばしば「あのときこうすればよかった」と後悔することからも、また国の歴史をふり返り、「何という愚かなことを」と反省することからも明らかです。われらはそれぞれがおかれた状況のなかで、その都度、よかれと思うことを選んでいるだけであり、その意味で「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」と言わざるを得ません。


タグ:親鸞を読む
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