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自利と利他 [はじめての『高僧和讃』(その41)]

(24)自利と利他

 願作仏心は自力ではなく、他力によるということを見てきました。仏になりたいと願うのは、それに先立ってそう願われているから、ということです。そして、そう願われていることに気づくとき、「あゝ、これは生きとし生けるものみなにかけられている願いだ」と気づきます。かくして自利と利他は別ものではなく、仏になりたいという願いは、取りも直さず、みんなとともに仏になりたいという願いであることが明らかになります。自利はそのままで利他であるのです。
 天親讃の最後の一首に進みます。

 「願土にいたればすみやかに 無上涅槃を証してぞ すなはち大悲をおこすなり これを廻向となづけたり」(第20首)。
 「往生すればすみやかに、無上涅槃に入るをえて、ただちに慈悲のこころもて、廻向の道にいそしみぬ」。

 天親は、往生して阿弥陀仏を見たてまつるには、礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向の五念門を修めなければならないと述べていました。そして「菩薩は入の四種の門をもつて自利の行成就す」、「菩薩は出の第五門の回向をもつて利益他の行成就す」というように、前の四門を自利の行、第五門を利他の行とするのですが、自利と利他は別々にあるのではなく、自利は自利のままで利他であることをこれまで見てきました。
 この和讃は、うっかり読みますと、今生で自利の行を励み、来生に往生して慈悲の利他行をすると受けとってしまいがちです。しかしこれまで見てきましたように、自利はそのまま利他であるとしますと、そのように自利と利他を今生と来生にふりわけることはできません。ここで頭に浮ぶのは『歎異抄』第4章、「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」という一段です。

タグ:親鸞を読む
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