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他者からの異議申し立て [『末燈鈔』を読む(その168)]

(9)他者からの異議申し立て

 「他の人たち」がわれら人間に限定されていれば問題ありませんが、そこに動物たちも入ってきますと、「わがもの」の根拠が一挙に揺らぎます。
 「わがもの」の観念が人間の外から強い異議申し立てを受けるのです。そしてそのときはじめて悪の意識が生まれてきます。「わがもの」の観念が悪であることはみずから意識されることはありません。それは他者から異議申し立てを受けてはじめて芽生えるのです。この他者とは共犯者である人間たちのことではありません。人間たちはみな「わがもの」の観念を当然としていますから、そこから異議申し立てがくることはありません。それは人間たちの外からやってきます。
 以上のことから一般に悪の意識は他者から異議申し立てを突きつけられてはじめて生まれるものであることが分かります。ここで他者とは、どこにでもいる人間たちではなく、思いもかけず突然顔をあらわす存在のことです。それは殺される動物たちであり、人間の場合であっても、ともにいま生きている人たちではなく、すでに死んだ人たち、あるいは、これから生まれてくる人たちかもしれません。
 ここに倫理と宗教の接点があるように思います。前に言いましたように、倫理が終るところに宗教が始まるのではなく、倫理と宗教は同じ土俵で複雑に絡み合っているのですが、それは倫理も宗教も他者との関係にその源泉をもつということです。他者からの異議申し立てに倫理の源泉があるように、他者からの赦しが宗教の源泉です。そして、倫理的煩悶がそのまま宗教的法悦であるということ。
 そのことを、善導の「機の深信」と「法の深信」をもとに、もう少し考えていこうと思います。


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