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心のほかに仏ましまさず [『観無量寿経』精読(その39)]

(13)心のほかに仏ましまさず

 しかしこの「心のほかに仏ましまさず」という言い回しはよほど注意が必要です。親鸞は「信巻」の序でこう言っています、「しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶(へん)す」(末法の世の出家も在家も、また近頃の各宗の師たちも、自性唯心の考えに囚われて、浄土の真実の証を貶しています)と。自性唯心とは、すべては心のあらわれであり、仏も浄土も心以外の何ものでもないとするいわゆる唯心論のことですが、曇鸞が「心のほかに仏ましまさず」と言っているのは、一見したところ、この唯心論のことではないかと思われます。仏といい浄土というのは、われらの心のことであり、心のなかに仏がおわし、心のありようを浄土と言っているのではないかと。
 さてしかし、『観経』において、そして曇鸞にとっても、無量寿仏がわれらの心のなかにおわし、その浄土もわれらの心のありようであるなどということはとんでもない話です。そもそも無量寿仏という名からして、それは「アミタ(無量)のいのち」ですから、「ミタ(有量)のいのち」であるわれらの心のなかにいるはずがありません。曇鸞が「心のほかに仏ましまさず」と言うのは、「仏は心と無関係に存在しているのではない」ということであり、「仏は心の内に存在している」ということではありません。「仏は心の外にいるのではない」が、「仏は心の内にいるのでもない」のです。では何処に。
 もういちど先の「木と火の譬え」に戻りましょう。火は木とは別のどこかにあるのではなく、木に着くというかたち、木を燃やすというかたちではじめて存在します。その意味で、火は木の外にあるわけではありませんが、しかしだからといって、木の中にもともと内在していたのでもありません。つまり「木なるもの」と「火なるもの」が互いに関係なくどこかにあるのではなく、「木に着く火」、「火となって燃える木」という関係(繋がり)があるだけということです。そのように「心なるもの」と「仏なるもの」が互いに関係なく別々にあるのではなく、「心に着く仏」、「仏となる心」という関係(繋がり)があるだけです。
 「心に仏を想ふ時、…この心作仏す、この心これ仏なり」と言われていたことについて考えてきました。そしてその意味は、「心に仏を想ふ時」、その「心のほかに仏ましまさず」ということであることを確認できました。その時、木に火が着くように、心に仏が着いており、木が火に焼かれて火となるように、心が仏に焼かれて仏となっています。これが信心です。

タグ:親鸞を読む
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