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仏を「知る」ことができるか? [『ふりむけば他力』(その86)]

(10)仏を「知る」ことができるか?

 カントが「われらの眼鏡を通して認識する」と言うことを、仏教では「〈われ〉が分別する」と表現します。こちらにわれらの心があり、あちらに対象があって、心のはたらきが対象を識別するということです。ものが「分かる」ということは、分けることができないものをあえて「分ける」ことにより、ぼんやりしていたものごとがはっきり見えるようになるということです。このようにわれらは分別することによって、あらゆるものごとを識別しているとしますと、そのように分別する前のあるがままの世界を知ることはできないということになります。カントが物自体は知ることができないと言ったのと同じ事情です。
 以前読んだ本に鈴木大拙氏(禅を世界に紹介した大家です)と曽我量深氏(浄土真宗きっての碩学です)のおもしろい対話がありましたので(『親鸞の世界』)、紹介しましょう。諸仏と衆生の関係が話題となり、曇鸞の『論註』を持ち出して論じる曽我氏に鈴木氏がこう問います。

 鈴木:書物でなしに、どこにその諸仏菩薩はおられるんです?
 曽我:諸仏はここにいます。
 鈴木:ええ?
 曽我:ここ、ここに。
 鈴木:ええ、どこに?ここにおるだろう?(と、おそらく自分の胸を指していると思われます)
 曽我:ええ、ここに。ここにというのはこの部屋の中に。『維摩経』によれば、維摩の法堂の中に諸仏がおります。
 (中略)
 鈴木:それでね、無量の諸仏国土があってだね、そうしてそこで諸仏菩薩がどうしたこうしたというけど、あれがはなはだわからんので、わしゃこれをみんなその…。
 曽我:いや、それはね人間にはわかりません。これはつまり如来の智願海の…。
 鈴木:その人間にはわからんというのを、それは人間がいってるんだろう?
 曽我:いや、人間がいっているけれどもですね、人間は自分にわからんことをわかろうとするんです。

 鈴木大拙氏は「そもそも諸仏とか諸仏の国土とは何か」と問いかけ、曽我量深氏は「それは人間にはわからない」と答えます。それに大拙氏は「わからないということがどうしてわかるのか」と刃を突きつけるのです、「ほんとうにわからないなら、わからないこともわからないのではないか」と。

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