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夢と現 [正信偈と現代(その201)]

(7)夢と現

 本願に気づくとき「ここは涅槃の城だ」と思うのですが、それと同時に「これまで生死の家にいたのだ」と気づくのです。
 これを、これまでは生死の家にいたが、本願に気づいたそのときに、涅槃の城に移動したと受けとるべきではありません。それでは生死の家と涅槃の城が二つの世界になってしまいます。そうではなく、生死の家と涅槃の城は同じ一つの世界です。それは一枚の紙の表と裏のような関係であり、生死の紙とは別に涅槃の紙があるのではないのです。もし生死の家と涅槃の城が二枚の紙でしたら、一方の生死の紙をくしゃくしゃと捨ててしまっても、もう一方の涅槃の紙はちゃんと残りますが、一枚の紙の表と裏ですから、表をくしゃくしゃと捨ててしまいますと、裏までくしゃくしゃと捨てられてしまいます。
 生死の家と涅槃の城を「夢と現」の関係と言ってもいい。
 ソファにもたれてうたた寝をし、夢のなかにいたのが、ふと目覚めて現に戻る。そのように、あるときふと目覚めて、「あゝ、ここは涅槃の城だ」と気づき、同時に「夢のなかで生死の家にいたのか」と気づくのです。涅槃の城の気づきは、生死の家の気づきでもあるのです。その気づき(目覚め)の前はと言いますと、そこは涅槃の城でないのはもちろんですが、生死の家でもありません。夢のなかにいる人は、それが夢であるなどとはつゆ思わず、ひたすら夢のなかをさまよっています。夢から覚めてはじめて夢と現の両方がはっきりするのです。
 どんな悪夢にうなされていても、それから自分で覚めることはできません。こんな悪夢はたまらんから早く覚めようと思って覚めるのではありません。ふと目覚めるのです。目覚めてから「あゝ、目覚めた」と気づくのです。そのように、生死の家から涅槃の城に入るのも、生死の家はいたたまれないから早く涅槃の城に入ろうと思って入るのではありません。ふと入るのです。入ってから「あゝ、入っていた」と気づくのです。

                (第23回 完)

タグ:親鸞を読む
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