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異時か同時か [『ふりむけば他力』(その84)]

(8)異時か同時か

 「これがあればかれがあり、これがなければかれはない。これが生ずればかれが生じ、これが滅すればかれが滅す」という経文は、「これ」と「かれ」は互いにつながっており、これはこれ、かれはかれと切り離すことができないということを言っていると考えることができます。したがって「これがあればかれがある」ということは、取りも直さず「かれがあればこれがある」ということで、「これがなければかれはない」とすれば、「かれがなければこれはない」ということになり、「これ」と「かれ」はお互いになくてはならないということです。
 ところが近代科学の因果観念が骨の髄まで染み込んでいるわれらは、「これ」と「かれ」を時間の流れのなかに置き、したがって「これ」が先行し、後に「かれ」があらわれるというように不可逆的な関係と受け取ってしまいます。しかし縁起(仏教の因果)において「これ(因)」と「かれ(果)」はそのような異時的な前後関係にあるのではなく、同時的な相互関係を意味しているのです。このように見ることができるとしますと、近代科学の因果概念と仏教の因果概念とは、同じ因果ということばをつかいながら、まったく別の概念であることが了解できます。
 第一の違いとして「異時」(不可逆)と「同時」(可逆)に注目しましたが、次に考えたいのは「知る」と「気づく」のコントラストです。
 言うまでもないことながら、近代科学の因果は、われらがその具体的な関係を「知る」ことができますが、一方、仏教の因果(縁起)は、その実際の関係を「知る」ことはできず、それに遇ってはじめてその関係に「気づく」ことができるだけです。ヒュームやカントが教えてくれましたように、近代科学の因果概念は自然現象の隠された関係を「知る」ためにわれらが用いるすぐれた道具であり、そして自然のある因果関係を「知る」ということは、それが「いつ」でも「どこ」においてもそのようになっているということです。したがって「Aが原因となってBという結果が起こる」ことを「知る」ことは、「Bを得ようと思ったらAが必要である」という「目的‐手段」についての知(実践的知)に他ならないということです。しかし縁起のありようを「知る」ことはかないません。

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