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娑婆と浄土 [「『証巻』を読む」その76]

(3)娑婆と浄土

さて仏・菩薩は清浄ですから、仏国土もまた清浄ですが、われら衆生は煩悩に穢れていますから、娑婆もまた不浄です。としますと、こちらに不浄な娑婆があり、あちらに清浄な仏国土があるということになるのでしょうか。そしてこちらには煩悩に穢れた衆生がいて、あちらには穢れのない仏・菩薩がいるということでしょうか。伝統的な浄土教においてはそのような図式が描かれてきましたが、この二世界説をはっきりと覆したのが親鸞であることはこれまで繰り返し述べてきた通りです。では娑婆と浄土、凡夫と仏・菩薩はどのような関係にあるのか、重複を厭わず、その要点を述べておきましょう。

娑婆と浄土という二つの世界があるのではありません、世界はいま眼前に広がるこの世界ただ一つです。さて、この世界は不浄の娑婆であると気づくとき、はじめてこの世界が娑婆となってあらわれます。その気づきがなければ娑婆という世界はどこにも存在しません。そして、ここが肝心要ですが、この世界は娑婆であると気づいたとき、その人は同時に浄土の存在にも気づいています。それは、ここは闇の世界だと気づいたとき、その人は光の存在にも気づいているのと同じです。光の存在に気づいていない人は、逆さまになっても、ここは闇の世界だと気づくことはありません。毎度同じ譬えで恐縮ですが、生まれてこのかた光に遇ったことのない深海魚は、ここが闇の世界だと気づくことはありません。その深海魚にとって、ここは光の世界でないのはもちろん、闇の世界でもなく、ただのノッペラボーです。

さて、この世界は不浄の娑婆であると気づいた人は、同時に浄土の存在に気づいていると言いましたが、それはどこにあるのでしょう。それはこことは別のどこかであるとしてしまいすと、またもや二世界説に舞い戻ってしまいます。そうではなく、浄土は気づきの光として「いまここ」にあります。不浄の娑婆も気づきとして「いまここ」にあるように、浄土もまた気づきとして「いまここ」にあるのです。そのことを親鸞は『末燈鈔』の第3通で「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と言っています。しかし、浄土の気づきのない人にとって、この世界は浄土でないのはもちろんのこと、不浄の娑婆でもなく、ただのノッペラボーです。


タグ:親鸞を読む
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