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「『証巻』を読む」その11 ブログトップ

想起 [「『証巻』を読む」その11]

(11)想起

ルソーの場合、自然状態はわれらがそこから離脱することにより人間になったのですから、人間が人間である限り、そこに戻ることはできません。そこに戻ろう(自然に帰ろう)というプログラムは根本的に間違っています。では仏国土はどうか。この場合もわれらがそこから離脱することで娑婆の人間になったのですから、人間が人間であるままで仏国土に戻ることはできる相談ではありません。したがって修行により仏国土に戻ろう(仏になろう)とするプログラムは原理的に誤りであると言わなければなりません。ではわれらには何ができるのでしょう。

プラトンのイデア論を参照しましょう。プラトンはこう言います、われらが何かを見て、「ああ、美しい」と思うのは、そのとき美のイデア(英語ではidea、原型などと訳されます)を思い出しているのだと。われらはこの世に生まれてくる前にイデアの世界に生きていて、美のイデアを目の当たりにしていたのだが、それをすっかり忘れてこの世に生まれてくると言うのです。そして何か美しいものに出会ったとき、忘れていた美のイデアを思い出すことで、「ああ、美しい」と思うと。このイデア論においても、われらはもはやイデアの世界に戻ることはできません、そこから離脱して人間として生まれてきたのですから。では何ができるか。ただイデアを「思い出す」(アナムネーシス、想起)ことだけです。

仏国土も同じように考えることができないでしょうか。われらはあるときふと故郷としての仏国土の原風景を思い出し、それを鏡として娑婆世界のありのままの姿(我執です)に気づくことができるということではないか。さて大事なことは、この「思い出す」ということはわれらがそうしようと思ってできることではないということです。思い出そうとして思い出すことがあるのは、忘れていることだけは覚えているからです。しかし、忘れたこと自体を忘れてしまいますと、もう如何ともしようがありません。それはただ「むこうから」突然おとずれます。これが仏に遇うということで、ここに他力の原義があります。われらが仏に遇うことができるのは、ひとえに仏の力によるということ、これです。

われらは今生において仏に遇うことができ、それがわれらの救いです。「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」です。

(第1回 完)


タグ:親鸞を読む
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