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弥勒とおなじ [親鸞の手紙を読む(その34)]

(5)弥勒とおなじ

 さて信心のひと、正定聚・等正覚のひとは「弥勒とおなじ」ということについて。弥勒菩薩は釈迦の次に仏となることがさだまっていることから、まだ仏ではありませんが、しばしば弥勒仏とよばれます。また、この一生が終われば仏となるということで「一生補処(いっしょうふしょ)の菩薩」ともよばれ、いまは兜率天(六欲天、すなわち四天王天・忉利天・夜魔天・兜率天・化楽天・他化自在天の一つ)で修行をしていて(釈迦も兜率天から下生したとされます)、釈迦入滅の後56億7千万年に下生して仏となり竜華樹の下で3回説法するといわれます(これを竜華三会といいます)。
 第2通においては「弥勒仏とひとしき人」と言われていましたが、ここでは「弥勒とおなじ」と言われ、そして「如来とひとし」とされます(第2通では弥勒菩薩ではなく弥勒仏とされていたことから「ひとし」と言われたのでしょう)。ともかく、親鸞は「おなじ」と「ひとし」を使い分け、弥勒とはかならず仏となることにさだまっているという点で「おなじ」と言い、如来とは「ひとし」と言います。信心のひとは、弥勒とおなじで、如来とひとしいと言うのですが、これはしかし伝統的な浄土教からみれば、何とも破天荒なもの言いだと言わなければなりません。「本願を信じ念仏をまうす」だけで弥勒とおなじであり、如来とひとしいとはあまりに過剰な言い分ではないかと感じられます。
 しかし親鸞は断固として言います、「この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こゝろはすでに如来とひとし」と。
 こんなことが言えるのは、信心のひとはもうすでに仏となる身にさだまっているからです。もうどんなことがあっても、かならず仏となることにきまっているからです。おたまじゃくしはもうどんなことがあってもかならず蛙になりますから、見た目はまったく違っていても、すでに蛙にひとしいと言えるように、信心のひとは仏になることから退転することはありませんから、どれほどあさましい身であっても、もう仏にひとしいのです。さあしかし、おたまじゃくしがかならず蛙になることをわれらは知っていますが、信心のひとがかならず仏になることは、それを誰も見たことがないのに、どうしてそんなことが言えるのでしょう。

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