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数限を超ゆ [『浄土和讃』を読む(その79)]

(17)数限を超ゆ

 ぼくらの頭はものごとをつねに三次元の空間の中において考えるようになっています。ですから、浄土があるとなりますと、すぐさまこの娑婆から空間的に遠く離れた世界を思い描きます。こうして「こちらに娑婆が、あちらに浄土が」という構図のもとで、浄土にはどんな荘厳が設えられているのだろうと発想していくのです。この発想では浄土はあくまでも相対的に娑婆よりも勝れた世界でしかありません、ちょうど六道のなかの人間道が畜生道よりも相対的に勝れているにすぎないように。
 親鸞が言いたいのは、浄土とはそんなものではないということでしょう。頭に思い浮かべようとするとどうしても相対的になってしまいますが、それはあくまで方便であり、仮の姿にすぎない、と。次の和讃ではこう詠います。

 「妙土広大超数限(ちょうしゅげん) 本願荘厳よりおこる 清浄大摂受(しょうじょうだいしょうじゅ)に 稽首帰命せしむべし」(第36首)。
 「浄土の広さ際もなく、清き本願よりおこる。生きとし生けるものつつむ、弥陀に稽首し帰命せん」。

 浄土は「広大にして数限を超ゆ」とは「無限」ということに他なりません。ところが『無量寿経』には「また無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり」とその「数」が記してあります。それがどれほど娑婆と比較にならないくらいのものであっても、所詮「数」であり「有限」です。浄土が文字通り「無限」であるとしますと、この記述はあくまで方便であり、イメージしやすいように仮にそのように表現しているだけということになります。
 何度も言いますように、「無限」は「有限」とは別にどこかにあるわけでありません。そうだとするとそれはもはや「無限」ではなくなります。

タグ:親鸞を読む
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