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往相の回向ととくことは [親鸞の和讃に親しむ(その52)]

(2)往相の回向ととくことは

往相の回向ととくことは 弥陀の方便とき(時)いたり 悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり(第35首)

往相回向ということは、弥陀の手立てがととのって、悲願の信行あたえられ、生死すなわち涅槃なり

前首で如来の回向に往相と還相があると言われたのを受けて、ここでまず往相回向について詠われます。「弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば」とは、弥陀の方便の「とき」が熟して、本願を信じ念仏申すことができるようになった、ということです。すなわち信も行もみな弥陀の回向であるということですが、ここで注目したいのは、その回向には方便を要し、そしてその方便が功を奏するには「とき」が必要であるということです。その「とき」がやってきて、はじめてわれらに信と行が回向されるということ、ここに思いを潜めたい。

弥陀の本願と名号は漏れなく一切の衆生に与えられているはずですから、一切の衆生がみな信行を得てしかるべきであるのに、「弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」(「正信偈」)と言われるのはどういうわけか。その疑問に対する答えがここにあります。弥陀は本願と名号を一切の衆生に届けるべく、さまざまな方便を凝らしてくださっているに違いありませんが、如何せん、その方便が功を奏するには、人によって長い短いの相違はあれ、時間がかかるのです。

思えばぼくが親鸞の思想に初めて触れたのは高校生のときでした。「倫理社会」の課題本として与えられた『歎異抄』を読み、よく分かならないながらも、「ここには何かがあるぞ」という感覚はありました。爾来、あのときの感覚は何だったのだろうと、濃淡はあるものの、親鸞はいつも心のどこかにありました。そのようにしてぼくの心は次第に弥陀の本願を受け入れるべく育てられていったのだろうと思われます。思えば長い道のりを歩んできたものですが、かように「弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむ」ことになると言わなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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