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自然のひくところ [『教行信証』精読2(その24)]

(7)自然のひくところ

 最初の文は、「ゆきやすくしてしかもひとなし。そのくに逆違せず、自然のひくところなり(易往而無人、其国不逆違、自然之所牽)」という『無量寿経』の印象的なことばについて論じています。浄土は自然のひくところであり、これほど往き易いことはないと思われるのにどうして人がいないのかということについて、憬興は「因を修すればすなはちゆく。修することなければ生ずることすくなし」と述べています。この「因を修す」とはどういうことでしょう。往生の因は信心ですから、信心さえあれば往生できますが、信心がないと往生は難しいということです。ただ、「修す」ということばには注意が必要で、これをわれらが信心という「心構え」を作らなければならないと受けとりますと、大事なことがどこかにすっ飛んで行ってしまいます。
 信心とはわれらの「心構え」ではなく、むしろ「構えをなくすこと」です。構えるというのは、本願をゲットしようと身構えるということですが、そうすればするほど本願から遠ざかってしまいます。逆に、構えをはずすことで本願にゲットされるのです。これが「自然のひくところなり」ということでしょう。親鸞は『尊号真像銘文』においてこの文を注釈するなかで、「大願業力のゆへに、自然に浄土の業因たがはずして、かの業力にひかるるゆへにゆきやすく、無上大涅槃にのぼるにきわまりなしとのたまへる也。しかれば自然之所牽とまふすなり。他力の至心信楽の業因の自然にひくなり。これを牽といふ也。自然といふは、行者のはからにひあらず」と述べています。
 親鸞は自然ということばを他力を表すものとして大事にし、いろいろなところでつかっていますが(もっともよく知られているのが「自然法爾」でしょう)、その要諦は「行者のはからひにあらず」ということです。先ほどは「構えをなくす」と言い、ここでは「はからいがない」とありますが、いずれも否定形になっています。他力信心とは何か肯定的なものではなく、むしろ否定的なものであるということ、何かをプラスすることではなく、むしろマイナスすることであることが分かります。

タグ:親鸞を読む
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