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「信巻を読む(2)」その16 ブログトップ

乃至一念せん [「信巻を読む(2)」その16]

(3)乃至一念せん

「信の一念」をあらわす経文が上げられます。

ここをもつて『大経』にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。

また(『如来会』)、「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せん」とのたまへり。

また(『大経』)、「その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲(おも)はん」とのたまへり。

また(『如来会』)、「仏の聖徳の名を聞く」とのたまへり。以上

最初の第十八願成就文は「信巻」のはじめに引用され、その後も「信楽釈」と「欲生釈」でも引かれていますが(親鸞がこの文を如何に重んじていたかがよく分かります、この文に『大経』のエッセンスが凝縮されていると見ているということです)、ここでは「乃至一念」の「一念」が「信の一念」であることを言うために出されます。繰り返しになりますが、まずはこの文の通常の読みと親鸞独自の読みとを比較しておきましょう、そのことでこの「一念」が「信の一念」であることが浮び上がるからです。

「聞其名号信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生住不退転」を普通に読みますと、「その名号を聞きて信心歓喜し、すなはち一念に至るまで至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生することを得て、不退転に住せん」となりますが、親鸞は「乃至一念」を「乃至一念せん」とそこで一旦切り、次の「至心回向」を「至心に回向したまへり」と独立させます。普通に「一念に至るまで至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば」とつづけて読みますと、たった一度の念仏であっても、それを心から回向して往生したいと願いますと、という意味で、この「一念」は「行の一念」となります。

親鸞までは法然も含めてみなそう読んでおり、この「一念」を「行の一念」と理解してきました。もとの第十八願は「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん」で、「乃至十念」は「行の十念」であることは明らかですから、その成就文の「一念」も「行の一念」と理解するのはきわめて自然です。ところが親鸞はこれを「信の一念」すなわち「信楽開発の時剋の極促」であるとするのですが、そこにはどのような心の動きがあるのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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