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1月24日(火) [矛盾について(その539)]

 ぼくが弥陀の誓願という歴史的現実を証明するのではなく、逆に、弥陀の誓願という歴史的現実がぼくを証明してくれるということを見てきました。『歎異抄』にこうあります、「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」(第2章)。
 「総じてもて存知せざるなり」が清々しい。そんなことは私のあずかり知らぬこと、どちらだっていいじゃないかと言うのです。
 それにしても驚くべきことばです。曽我氏はこのことばについて、こんなふうに言います、「たねだとか、たねでないとかいうよりは、念仏はそのまま往生を証明している。だから『たね』なんかということはでてこない。念仏は往生の道であって、たねとかたねでないとかは頭の問題である。実践の問題として念仏して現に往生しつつあるとは、法然上人の体験である」と。
 念仏は往生の「たね」かどうかというのは、すでに問題のたてかたからして間違っているということです。
 「たね」かどうかではなく、念仏はそのまま往生の道なのです。念仏は往生の「たね」かどうかと問うとき、念仏も往生も問うている人の外にあります。念仏と往生を向こうにおいて、さて念仏は往生の「たね」であるかどうかと問うているのです。それに対して念仏と往生を生きている人はその中にいます。念仏の中にいて、また往生の中にもいます。そのとき念仏と往生は別ものではありません。

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