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因果の法則 [親鸞最晩年の和讃を読む(その46)]

(2)因果の法則

 こうした錯誤を生む元は「因」ということばにあります。仏教で「因」あるいは「因縁」というものと、日常のことばで「原因」というものとの間には微妙ですが、しかし根本的な違いがあります(仏教語に由来する日常語は掃いて捨てるほどありますが、ほとんどの場合において意味のズレがあり、それが仏教を誤解させる大きな要因となっています。浄土教の場合、他力ということばがその最たる例でしょう)。
 仏教の「因」という概念が縁起の法からきていることは言うまでもありません。縁起の法の定式としてもっとも有名なものが「これあればかれあり、これ生ずればかれ生ず、これなければかれなし、これ滅すればかれ滅す」(『雑阿含経』など)ですが、これを何の気なしに読みますと、われらになじみの因果の法則と何も変わらないように思えます。「AがあるからBがあり、Aが生じるからBが生じるのであり、逆に言えば、AがなければBはなく、Aが滅すればBも滅する」というのですから、Aという原因がBという結果を生み出していると言っているように聞こえます。
 では、われらになじみの因果の法則とは何でしょうか。Aという原因がBという結果を生むというのはどういうことか。イギリスのヒュームはこれを徹底的に考えた哲学者ですが、彼によりますと、Aという現象が起こると、それにつづいてBという現象が起こるという経験を何度も繰り返すなかで、われらはAという原因がBという結果を生み出しているというように考える「くせ」がついたのだというのです。ですから、Aが原因でBがその結果だというのは、これまでの経験では、Aが起ったときにはかならずそれにつづいてBが起っていたということに過ぎず、何もAとBとの間に必然的な関係があるわけではないということになります。
 ヒュームが因果の法則について徹底して思索せざるを得なかったのは、ヨーロッパの近代自然科学がこの因果概念にのっとって組み立てられているからで、ひいてはわれらの生活の基盤となっているからです。

タグ:親鸞を読む
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