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至心信楽の願 [『教行信証』「信巻」を読む(その21)]

第3回 すなはち往生を得



 (1) 至心信楽の願



 真実の信心についての総説のあと、経典の引用がはじまります。まずは『大経』と『如来会』から第十八願が引かれます。



至心信楽の本願(第十八願)の文、『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生まれざれば、正覚をとらじと。ただ五逆と誹謗正法を除く」と。以上



『無量壽如来会』にのたまはく、「もしわれ無上覚を証得せん時、余仏の刹(せつ、国土)のうちのもろもろの有情類、わが名を聞き、おのれが所有(しょう)の善根、心々に回向せしむ。わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん。もし生ぜずは、菩提を取らじと。ただ無間の悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんをば除く」と。以上



親鸞は『無量寿経』から引用するとき、かならずと言ってもいいほど『大経』だけではなく、その異訳テキストの該当箇所を引用しており、ここでは『如来会』を出しています。「行巻」において第十七願を引用するときには『如来会』にとどまらず『大阿弥陀経』と『平等覚経』からもフルに引用していました(現存するテキストにはもう一つ『荘厳経』がありますが、親鸞はこれを参照できなかったようです)。異訳テキストを参照することで『大経』の言わんとすることをよりはっきりと聞き取ることができるということです。ここでは『大阿弥陀経』と『平等覚経』からの引用はありませんが、この二つの古いテキストでは本願は二十四しかなく、『大経』で第十七願と第十八願になっているのが一つの願に合わさっていますので、「行巻」の引用文のなかに第十八願に当たるものがすでに含まれていたからです。



さてすぐ前の総説において「この心(信心です)すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり」と言われていましたように、この願こそ信心の源泉ですから、願の言わんとすることを正確に聞き取らなければなりません。まずは『大経』の願文から精査していきましょう。



タグ:親鸞を読む
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