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因果応報 [『観無量寿経』精読(その6)]

(6)因果応報

 どうしてこの自分がこんな理不尽な目にあわなければいけないのか、自分はいったいどんな悪いことをしたというのか、という思い。これはとつぜん身に災難が降りかかってきた人ならだれしも一度は懐いた覚えのある思いでしょう。あるとき、たちの悪い夏風邪にかかってしまい、不快な症状がいつまでも続くのを持て余して、つい「誰かの恨みを買っているのだろうか」と呟いたのですが、それを聞いた妻が「親鸞、親鸞と言っている人のことばとも思えない」と返してきて、ハッとしました。「ああ、オレもまた韋提希と同じことを言っている」と思ったのです。
 「世尊、われ宿、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる」という愚痴について思いを潜めてみましょう。
 この思いの裏には、もし自分にそれ相応の罪があるなら、このような結果になるのも仕方がないという気持ちがあります。しかし、そんな罪があるとは思えないのにどうして、と、ことの理不尽さに愚痴をこぼしているのです。つまり、この思いは、善因には善果が、悪因には悪果が、という因果応報説を背景にしています。そして、言うまでもないことながら、この因果応報の考えは、われらに何が善で何が悪かを判断する力があることを前提しています。さてしかしわれらにそんな力があるのでしょうか。
 親鸞のことばが蘇ります、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(『歎異抄』後序)と。われらが普段、これは善、これは悪と判断しているが、それはほんとうに善であり悪であるのか、「みなもつてそらごとたはごと」ではないのか、という問いかけです。この問いに、否と言い切れる人はいるでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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