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涅槃のかど [はじめての『高僧和讃』(その221)]

(24)涅槃のかど

 さて、この和讃で目を引くのが「涅槃のかど」ということばです。この和讃はおそらく『選択集』の「生死の家には疑をもって所止となし、涅槃の城(みやこ)には信をもつて能入となす」にもとづいていると思われます。親鸞は「正信偈」にもこのことばを取り上げ、「生死輪転のいへにかへりきたることは、決するに疑情をもて所止とす。すみやかに寂静無為のみやこにいることは、かならず信心をもて能入とす(還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入)」と詠っています。
 法然が信心をもつて「涅槃の城」に入ることができると言っているのを、親鸞はこの和讃で信心により「涅槃の門」に入ると言いかえています。法然の文と親鸞の和讃を比べてみますと、法然が「涅槃の城」に入ると言うとき、それはいのち終わった後であるのは当然のこととして言っているのに対して、親鸞が「涅槃の門」に入ると言うとき、それは信心をえたそのときであると読めます。涅槃そのものに入るのはいのち終わった後のことだが、その門に入るのは今生で信心をえたそのときであると。
 「門に入る」という言い回しは味わい深いものがあります。
 ぼくは東大寺の境内にある学校で中高時代を過ごしましたが、東大寺には南大門という壮大な門があります(法然の推挙で東大寺再建の勧進役をつとめた重源により建てられた天竺様式の門で、その両脇に運慶・快慶作の金剛力士像があることはよく知られています)。そこを入って少しいった左側にぼくらの学校がありましたが、参道はずっと続き、その先にまた門があります。中門とよばれますが、その奥に大仏殿(金堂)がそびえているという具合で、南大門を入ってから大仏殿に至るまでにかなりの距離を進まなければなりません。
 そのように、何にせよ門に入ることから始まりますが、成就するまでには長い道程を進まなければなりません。仏教がめざす涅槃も、その門に入ることで涅槃への旅がはじまり、そして長い道程の果てに涅槃そのものに至ることができます。本願に遇うことができたそのとき門に入り(これが即得往生です)、そして涅槃への旅を続けて、いのち終わるときに涅槃に入るのです。

                (第11回 完)

タグ:親鸞を読む
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