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幻覚か [『教行信証』精読2(その39)]

(7)幻覚か

 本文2において魔障に悩まされるのは自力の三昧行においてであると述べたあと、ここで念仏三昧は他力によるから魔障から護られると説いています。自力と他力の違いで魔障のあるなしを論じているのですが、さてしかしこれで先の問いに答えたことになるでしょうか。臨終の来迎というのは魔の仕業ではないのかという問いは、つまるところ、他力という「不可思議功徳のちから」そのものが魔のもたらしているものではないかという疑問でしょう。としますと他力だから魔障は生じないというだけでは疑問に答えたことになりません。他力とは何であるかをきちんと言わなければ、他力は魔の仕業ではないことの説明にはなりません。
 そこでぼくを立ち往生させた問いに戻ります。「こんにちは」の声に南無阿弥陀仏を聞くのは幻聴(魔の仕業)ではないかという問いでした。
 ぼくが研修会で述べたのは、ふと南無阿弥陀仏の声が聞こえることが親鸞にとっての信心であり(聞即信)、それがそのまま往生すなわち救いに他ならないということです(信即生)。ですから、もし南無阿弥陀仏の声が聞こえるのが魔の所為だとしますと、親鸞の他力思想が根底から崩れると言わなければなりません。さて、「こんにちは」が文字通り「南無阿弥陀仏」と聞こえたとしたら、これは紛れもなく幻聴でしょう。苛酷な修行で神経が極度に疲労していたり、あるいはこころの病からいろいろな幻聴が聞こえるのは珍しいことではありません。
 しかしぼくの場合、「こんにちは」は「こんにちは」と聞こえたのです。ただ「こんにちは」の奥から「南無阿弥陀仏」の声が聞こえた。ぼく流に平たく言い換えますと「帰っておいで」という声です。「こんにちは」という挨拶のことばを通して「帰っておいで」という声が聞こえたということです。むこうからやってきた「こんにちは」という暗号を解読して「帰っておいで」というメッセージを受け取ったと言ってもいい。いってみれば「いのちそのもの」からメッセージを受け取ったのです。「いのちそのもの」から暗号を傍受すること、これを幻聴と言えるでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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