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正定聚のくらゐ [はじめての『尊号真像銘文』(その11)]

(11)正定聚のくらゐ

 「この真実信心をえむとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらゐにさだまる」という一文に親鸞浄土教が凝縮されています。本願招喚の勅命(「帰っておいで」の呼び声)が聞こえたときが真実信心をえるときであり、そしてそのときが弥陀の摂取不捨の心光にはいるときであり、さらにそれが正定聚のくらゐにさだまるときであるということ。とすればもう「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」です。信心成就のときにすべてが成就するのです。
 正定聚をどう位置づけたらいいか、あらためて考えてみましょう。
 正定聚とは「往生のさだまったくらゐ」であるというのは間違いないのですが(親鸞自身そう言っています)、それが多くの場合「往生それ自体はまだ先のことだが、往生することがたしかに約束されたくらゐ」であると理解されます。往生は来生のことだが、その切符は信心をえたときにすでに与えられ、往生を待っている人が正定聚であるとされるのです。そうしますと肝心の往生は来生のことで、今生はそれをひたすら待つ時間ということになります。
 親鸞が正定聚をそのように理解したとはとても思えません。正定聚とは「往生を待つ人」ではなく、「すでに往生の旅にある人」と見ていると思うのです。ぼくらは往生ということばを聞きますと、どうしてもある瞬間を思い浮かべてしまいます。点ととらえるのです(これも『観経』のイメージが知らず知らずのうちにそうさせていると思います)。そうしますと、それを信心のときとすることには大きな抵抗が働き(信心のときに人生が終わってしまうような気になってしまいます)、その結果として往生はやはり臨終のときということに落ち着くのです。
 しかし往生とは点ではなく線ではないでしょうか。瞬間移動(テレポーテーション)ではなく長い旅。この旅は信心のときにはじまり、臨終まで続きます。ですから正定聚とは往生という旅をしている人のことです。死んだ人のことをよく「旅立たれました」と言いますが、死んでから旅立つのではなく、信心のときからすでに旅は始まっているのです。では死んだらどうなるのか。残念ながらこればかりは分かりませんが、おそらくはいのちの故郷に帰るのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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