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われらが「ただ念仏」を選ぶのだが [『教行信証』精読2(その68)]

(15)われらが「ただ念仏」を選ぶのだが

 おもしろいテレビ番組がありました。「人体」という番組で、人間の身体の不思議を解き明かそうとするものですが、印象に残ったのは、脳があらゆる臓器に指令を下し、臓器はそれにしたがって動きを調整することで全体の統一がはかられているというイメージがありますが、実はそうではなく、それぞれの臓器同士が直接情報をやり取りすることで互いに調整し合っているということです。ぼくはそれを聞いて、これこそ仏教の縁起ではないかと思いました。「これあるに縁りて、かれあり、これ生ずるに縁りて、かれ生ず」というごとく、あらゆるものはお互い縦横無尽に繋がりあっていて、その繋がりから独立したものは何ひとつないということです(仏教では人間は五蘊すなわち色・受・想・行・識が集まりあい繋がりあっているとします)。
 さて、あらゆるものは互いに繋がりあっているというのはどういうことでしょう。ある人がこの道を歩くということは、紛れもなくその人が選んでそうしているのですが(別の道を選ぶこともできますし、もう歩くことをやめるという選択もあります)、でもその行為の背景には職場に行かなければならないという事情があり、そしてそれにはまた家族を養うために仕事をするということがあり、という具合にどんどん繋がりが広がっていきます。となりますと、確かに彼がこの道を歩くことを選んでいるのですが、それはもうそうせざるをえないからであり、その意味ではすでに選ばれているのです。「選ぶ」には違いないが、しかしそれは同時に「選ばれている」。ここには前に話題とした「能動と受動のあわい」(中動です)が姿をみせています。
 もとに戻ります。往生の業として他を選びすて、念仏のみを選びとるのは誰か、ということでした。それは源空聖人に勧められたわれら自身に違いありません。われらが「ただ念仏」の道を「選ぶ」のは天地がひっくり返っても動きません。しかし、念仏の道は実はすでに「選ばれている」のです。誰によって?因位の阿弥陀仏、すなわち法蔵菩薩によってです。それはいったいどういうことか。その答えは「みなを称すれば、かならず生ずることをう。仏の本願によるがゆへに」という文言に隠されています。

タグ:親鸞を読む
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