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去るものは去らない [『ふりむけば他力』(その95)]

(4)去るものは去らない

 龍樹の論点が比較的分かりやすく示されているのが第2章「運動の考察」です。その冒頭でこう言われます、「まず、すでに去ったものは、去らない。また未だ去らないものも去らない。さらに〈すでに去ったもの〉でも〈未だ去らないもの〉でもない〈現在去りつつあるもの〉も去らない」と。すでに去ったものと未だ去らないものが去らないのはその通りとしましても、いま現に去りつつあるものは去るのではないかと思います。どうして現在去りつつあるものが去らないのか、という疑問に龍樹はこう答えます、「いま現に去りつつあるものが、その上さらにどうして去るのか」と。これは龍樹独特の言い回しで、いたるところで見ることができますが、この言い回しのポイントは「去るもの」と「去ること」は切り離すことができないということにあります。その切り離せないものを切り離して、「去るもの」が(それはもう「去る」ものであるのに)その上さらに「去る」とするのは理に合わないではないかというのです。
 頭に浮ぶのがゼノンのパラドクス「飛ぶ矢は飛ばない」です。「飛んでいる矢の各瞬間をとらえると止まっている。どの瞬間にも止まっている矢はどのようにして飛ぶことができるであろうか」というパラドクスですが、これをもっと分かりやすく、次のように言うこともできます。「飛ぶ矢は出発点Aから到達点Bにいたるまでにその中間点Cを通らなければならない。そして次にCとBの中間点Dを通らなければならず、さらにDとBの中間点を通らなければならず、…かくして矢はいつまでもBに到達することができない」。線分は無限の点で成り立っている(あるいは時間は無限の瞬間で成り立っている)とすることから出てくるパラドクスですが、これを龍樹の論法で言いますとこうなります、「飛ぶ矢は飛ばない。なぜなら飛ぶ矢はすでに飛んでいるのだから、その上さらに飛ぶことはない」と。
 しかし矢が飛ぶのは目の当たりの現実です。いったいどういうことか。
 われらは「人が去る」と言い、「矢が飛ぶ」と言います。まずもって「人」というもの、「矢」というものがあって、しかる後にそれらが「去る」、「飛ぶ」という動きをするというように、「動きをするもの」と「動き」とを分けて考えます。それは、われらのことばがものごとを「主語」と「述語」とに分けて表現するような構造になっているからです。このようにことばがそのように見せかけているだけなのに、実際に、まずもって「人」や「矢」なるものがあり、それが「去る」とか「飛ぶ」という動きをすると見てしまいますと、「去る人は去らない」とか「飛ぶ矢は飛ばない」というおかしなことが出てくるわけです。

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