SSブログ
『教行信証』精読(その172) ブログトップ

必得往生 [『教行信証』精読(その172)]

(19)必得往生

 この必得往生について親鸞はこう言います、「必得往生といふは、不退のくらゐにいたることをうることをあらはす」と。ここで親鸞は往生と不退をひとつとしています。そしてまた「経には即得といへり」と指摘していますように、第18願成就文には「すなはち往生をえ(即得往生)、不退転に住す(住不退転)」とあり、ここでも往生と不退が同義であることが明らかです。さらにはこの即という文字について、「願力をきくによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり」と述べ、これは時間の即、つまり「すなわちのとき」であることを確認しています。
 「願力をきく」(この独特の言い方は「願力のいわれをきく」と生ぬるく解釈されることがしばしばですが、そうではなく、「願力に遇う」、「名号を聞く」と読まなければなりません)とき、そのときに往生を得て、不退のくらいに至るのです。不退とは仏となることから退かないという意味であり、正定聚と同じです。そして往生するというのは不退となり正定聚となることですから、信心を得たそのときに往生がはじまることになります。ここを素直に読む限り、それ以外の受け取り方ができるとは思えないのですが、どういうわけか、往生は臨終のときまで先延ばしされ、信心を得たときは往生が約束されるだけであるという理解がまかり通っています。
 すでに述べましたように、これは『観経』にもとづいて『大経』を読んでいるとしか言いようがありません。『観経』では一貫して、念仏者は臨終のときに弥陀の来迎にあずかり、浄土へ往生することができると説いていますから、それを前提として第18願成就文を読みますと、往生と不退(正定聚)を切り離すしかありません。かくして信心を得たとき、不退の位につくが、それは往生することではなく、ただ往生が約束されるだけと解釈することになるのです。しかし親鸞は『大経』こそ真実の教であるとし、『観経』(及び『小経』)は方便の教であるとしているのですから、逆に『大経』にもとづいて『観経』を読まなければならず、そうすれば臨終の往生は方便の教えであることが明らかになります。

                (第12回 完)

 ※「『教行信証』精読」は一旦ここで打ち切りまして、次回から「親鸞最晩年の和讃を読む」を配信します。「『教行信証』精読2」はそのあとになります。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その172) ブログトップ