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夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし [「信巻を読む(2)」その114]

(5)夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし

「殺もまたかくのごとし。凡夫は実とおもへり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり」という言い回しが繰り返され、それを魔術ややまびこなどさまざまな譬えによって明らかにしようとしています。いちばん分かりやすいのが最後の夢の譬えではないでしょうか。夢のなかにある人は、そこで起こっていることを唯一の現実だと信じて疑いませんが、実際は夢の中での出来事にすぎないように、人を殺すということも、その狂乱状態から醒めてみると、夢の中の出来事であるかのように感じられるということです。狂乱状態にあるときは、それがただ一つの現実であるとしか思えませんが、そこから醒めると、夢から覚めた人のように、「あゝ、あれは身心が狂乱した状況のなかで起こったことなのだ」と気づかされるのです。

そのとき狂乱状態というのは我執という囚われが引き起こしたものであることに気づいています。われらはみな我執という囚われのなかにあるのですが、そこに何かきっかけとなることが起りますと、身心が狂乱状態となり、思いもかけないことをしでかしてしまうのです。しばしば引き合いに出すことですが、『歎異抄』第13章に「わがこころのよくて殺さぬにはあらず」という親鸞の印象的なことばがあります。われらが人を殺さなくて済んでいるのは、わが心が善いからではなく、ただそのきっかけ(これが縁です)がないからだけであるということです。それを裏返しますと、阿闍世が父王を殺してしまったのは、彼の心が悪いからではなく、そのきっかけとなることがあったからです(提婆達多の唆しがその一つでしょうが、その他にもさまざまな縁があったに違いありません)。

われらはみな我執という囚われのなかにあり、何かきっかけとなることがあれば、それがとんでもない狂乱となって姿をあらわすのですが、だからと言って、われらの責任はないということにはなりません。どころか、その根っ子に我執があることに気づくとき、われらには激しい慚愧の念が起り、重い罪の意識に苦しめられることになります。しかしそのことがわれらを救いの門に導いてくれるのです。


タグ:親鸞を読む
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