SSブログ
はじめての『尊号真像銘文』(その145) ブログトップ

諸仏とひとし [はじめての『尊号真像銘文』(その145)]

(5)諸仏とひとし

 本願を信じ念仏を申すものは諸仏と同じはたらきをしているということが、次の「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり」につながります。むこうからやってきた名号が聞こえて信心歓喜し、その名号が口をついて出るということ、これは等覚の位にいたるということだと親鸞は言うのです。
 等覚といいますのは正覚すなわち仏の悟りのひとつ手前(菩薩道52階位の中の第51位)ですが、親鸞が信心の人は等覚の位にいると言うのは『如来会』に「もしわれ成仏せんに、くにのうちの有情、もし決定して等正覚(これが等覚です)をなり、大涅槃を証せずば菩提をとらじ」とあるのに依っています。一方、『大経』は「たとひわれ仏をえたらんに、くにのうちの人天、定聚に住し、かならず滅度にいたらずば正覚をとらじ」(第11願、必至滅度の願)と、正定聚ということばを使っています。
 そして、等覚といい正定聚というのは「弥勒のくらゐとひとし」ということだと親鸞は解説します。
 『唯信鈔文意』や『一念多念文意』では「諸仏とひとし」と言い、また「弥勒とおなじ」と言っています(弥勒は次に必ず仏となるのですから、信心の人と「おなじ」であるというのです)。この「ひとし」は、等正覚の「等」から出ていると思われます。信心の人は等正覚であり、等正覚とは「正覚とひとし」ということですから、結局「諸仏とひとし」ということになるわけです。親鸞が関東の弟子たちにこのように教えたことは(親鸞は『唯信鈔文意』や『一念多念文意』を書き送っています)、弟子たちの中に深い印象を与えたと見えまして、この論点を巡って書簡のやりとりがなされています。
 とくに示唆に富むのが『末燈鈔』の第4通で、そこで親鸞は信心の人はもろもろの如来にひとしいと説く経文をまとめているのですが、まず『華厳経』から「信心歓喜するものは如来とひとし」という文、そして『大経』「往覲偈(おうごんげ)」から信心をえたものは「わが善き親友なり」という文を上げたあと、第17願とその成就文を取り上げているのです。うっかり読み飛ばしてしまいそうなほどさりげなく触れられていますが、さてどうして第17願が「信心の人は如来とひとし」の根拠となるのか、しっかり考えなければならないところです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『尊号真像銘文』(その145) ブログトップ